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「アオイホノオ」の頃(全3回)
第3回 「アオイホノオ」〈漫画版〉ロケ地巡り

 あの頃を知り「アオイホノオ」のモデルとなった、大阪芸術大学近くに現在住んでいる私だからわかり得る情報を元に、〈漫画版〉ロケ地ガイドを作ってみました。
 それにしても、「アオイホノオ」のコミックスを12巻まで見る限り、作画にあたってかなり綿密なロケハンが行われているのがわかります。何気なく描かれているような背景画にしても、たとえばコミックス9巻の中ほど、主人公モユルが所属するバドミントン部の練習試合の帰りに列車のホームで津田さんと語らう場面、あのホームはおそらく近鉄南大阪線、道明寺駅の河内長野方面行きホームで、二人はそこから電車で2駅の喜志駅まで戻り、駅西側を少し行った所にある駐車場脇の小さなお店で食料品を購入のち、バスで20分もしくは自転車二人乗りで30分のモユル下宿に到着……、などと、親切過ぎるくらい手に取るようにわかってしまうわけで、ついでに、自宅通学組の津田さんが、他の部員から別れて、さらにわざわざモユルといっしょに、小一時間掛けて下宿まで戻って夕食を共にするなんて、どう考えても「恋人」の行動パターンではないのか。モユルはともかく、少なくとも津田さんはモユルとお付き合いしているつもりに違いない、などと、お友達感覚の深読みさえできる。
 ともかくも北海道在住の作者、島本和彦氏が、当時を振り返りながらの取材旅行に、わざわざこんな田舎までやって来られたことは間違いなく、作品にかけるその情熱を感じて、地元住民にして元芸大生の身としては、とてもうれしく、なんとも感慨深いのである。




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大阪芸術大学 通称「芸大坂」
何でも無さそうでいてけっこう登りがキツい芸大坂、1980年頃は学生は皆この坂を歩いて登りました。「芸大バス、上まで上がってくれないかなあ」と誰もが切望したのも今は昔、現在はMK観光の送迎バスがスイスイ登っていきます。テレビドラマ「アオイホノオ」では、ここでロケーション撮影が行われました。ちなみに80年頃は右側の歩道スペースはまだありませんでした。




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大阪芸術大学 正面アプローチ
ドラマでも頻繁に登場した芸大の正面玄関。この11号館には大学事務所と、漫画劇中に登場した画材店や学食があります。製図机の販売に熱心なあの画材店のお兄さんは元気だろうか?(漫画にもそれらしい人が登場しますが)




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大阪芸術大学 通称「UFO通り」
通り名の由来であるこのUFOぽいものは直下の学食の天窓を兼ねた憩いのイスです。このあたりは時間が止まっているようで、30年前から少しも変わっていません。




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大阪芸術大学 7号館
ファーストピクチャーズショーの会場としてよく使われたホールはこの角の部分にありました。




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大阪芸術大学 14号ホール
モユルが所属するバドミントン部が練習を行っていたのはこのホールの前です。あの頃は運動部用のシャワースペースなど無かったので、このホールのちょっと大きめのトイレの洗面所でみんな顔を洗ったり体を拭いたりしていました。そのあたりの様子は、漫画劇中にさりげなく描写されています。何とも芸が細かいです。




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大阪芸術大学 通称「アンドロメダ草原」
ファーピクで心が折れそうになったモユルが悶絶寸前に転げ回った芝生がここです。モユルとトンコさんが芸大犬と戯れていたところもここです。「芝生にカップル」とはたいそう絵になる風景ですが、正面にある第一学食からは舞台のごとく目立つ場所なので、食堂営業中にはそれなりの覚悟は必要です。ちなみに、大学内に住む犬「芸大犬」は実際に生息していました。おとなしい犬で、後ろから見ると足の形がΩみたいに見えるので「オメガ」とも呼ばれていましたっけ。




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大阪芸術大学 芸術情報センター
漫画中、よく登場するこの建物。中にはパイプオルガンがあるホールや立派な図書館などがあります。当時「塚本記念館」と呼ばれていました。実はこの建物が完成したのは1981年のことなので、モユルが1回生の頃はまだ工事中であったはずです。




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近鉄 喜志駅
関西では話題の日本一の高層ビル「あべのハルカス」。その真下の近鉄阿部野橋駅から準急で30分弱、喜志駅は芸大最寄り駅です。とはいえ芸大まではそうそう歩ける距離では無いので、ここから芸大生用の送迎バスが出ています。喜志駅の1980年頃はまだ駅舎が地上にあり、大阪方面のホームへ行くには駅構内の踏切を渡る必要がありました。このホームではあの頃、芸大の講義に来られていたフランキー堺さんをよくお見かけしました。日本を代表する俳優さんなのに、電車で通ってられたのですね。あと駅舎の入口に初夏の頃にはツバメが巣をかける情景が思い出されます。




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喜志駅前の書店
モユルが頻繁に通っていた書店のモデルは今は無き「ポプラ書房」。私もずいぶんお世話になりました。漫画中ではモユルがいかにも近所の書店に立ち寄ったかのようにみえますが、実際モユルの下宿からここまで、自転車で20分、歩けば1時間ほどの距離です。田舎暮らしはとかく不便なものです。




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ダイエー富田林店
近頃イオンの完全子会社となったダイエー。この富田林店の先行きも不透明です。それにしても1980年頃のダイエー富田林店は本当に輝いていました。




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ダイエー富田林店 地下1階
あの頃ここには、写真に写っているような飲食店がいくつも並んでいて、そのなかのひとつが、トンコさんがバイトをしているお好み焼き屋のモデルであると推測されます。漫画劇中に登場したお好み焼きは、鉄板ではなくお皿に載せてコーラなどと合わせて提供するスタイルだったはず。70年代から増え始めたダイエーのような量販店に付属する飲食店ではよく見られたスタイルです。現在、外国人旅行者から「ダンシング・ボニータ」と歓迎されている伝統芸のようなカツオ節載せも、ちょうどその頃に広まりました。横長の皿に合わせて楕円形に焼いたお好み焼きに、ソースをさっと塗り、スプーン一杯のマヨネーズをポン、最後にカツオ節を載せて完成。鉄板で提供できない代わりに、食欲をそそる演出として編み出されたであろう技が、今では全国で大阪風お好み焼きのスタンダードとなっているのです。




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モユルが通った空手道場
今も大勢のこどもたちが鍛錬に励む地元では有名な空手道場です。作者の島本氏がここに通っていたかどうかは知りません。余談ですが、このあたりが舞台になった漫画作品は厳密には「アオイホノオ」が最初ではありません。80年代集英社のヤングジャンプにそこそこ長く連載されていた八潮路つとむ氏作「キャンパスクロッキー」がそれです。題名からわかるとおり、大学生のキャンパスライフを面白おかしく綴った漫画で、そこそこ人気がありました。この道場の並びにかつてあった、阪南スクールコーポというこのあたりでは大規模な男子寮が、この漫画の主人公が暮らす男子寮のモデルで、劇中は「大南カレッジコーポ」という名前になっていました。




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空手道場からモユル下宿までの道中
こういう、言ってしまえばどうでもいい細かなところも、そこそこ忠実に描き出されている「アオイホノオ」。この住宅街の中に、かつては島本氏が暮らした下宿がありました(今ははもう跡形も無い)。住宅街の背後に見える大きな建物は現在までに次々増殖した芸大学舎の一部で、80年代頃にはもちろん無かったものです。ちなみに学舎増設に伴い住宅内で発生したテレビの電波問題も、芸大側ではしっかり対応していて「さすがは芸大さん」などと、芸大の地元での評判はすこぶるよろしい。




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モユル下宿近くの電話ボックス
細かいところ、こだわってるなあ。近年一度公園整備が入っているので、ボックスの位置は変わっているかもしれませんが、そんなの覚えているはずもなく「じゃあ駅にしろ何にしろ、現在の形ではあるけれどリアルにちゃんと描こうよ」とルールを決められたのであろう島本氏。そんな作品愛にはほんとうに頭が下がります。




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近鉄 道明寺駅
コミックス9巻に登場した道明寺駅は、自動改札化に伴う駅舎の改築があったものの、ホームや周辺環境は80年代からほとんど変わってない希有な存在。ホーム向こうに、ここ始発の支線、道明寺線が見えます。




「アオイホノオ」の頃。
 芸術系大学の大きな問題のひとつが就職問題。せっかく専門分野を学び終えても、大学に寄せられる求人にはそれを生かせる職が無い。「何だおまえ、一から出直しで営業職するつもりか?」「だれか引っぱってくれないかなあ」などと3回生を過ぎると誰もがナーバスになり、そのうち仲間内で就職の話題すら出なくなる。いざこれからバブルの時代であったはずなのに、あの頃の私の身の回りにはそんな空気が充満していました。ただ裏を返せばそれは、まだまだ「成せばなる」時代だったということなのかもしれません。
 デザイン学科だった私は、就職活動もろくにせず、卒業制作にはアニメーション制作を選びました。あの頃のデザイン学科でアニメを作ったのはたぶん私だけです。それは手間の掛かるセルアニメーションで、「ひとりで作るなんて無理だよ」という醒めた声も聞こえました。それまでずっと観ていたテレビアニメはどんどんマニア指向に傾き、私はアニメ製作者のファッションセンスの希薄さに辟易しはじめていました。ノースリーブ風にTシャツの袖をまくったシャア(※)、なんて見たくはなかったのです。とかくデザイン学科の仲間から蔑まれていたアニメだけれど、その頃がちょうど黎明期だったミュージッククリップのようなものを作って、学科の仲間たちに「アニメも悪くないね」と言わせてみたかったのです。
 数ヶ月掛けてそんなミュージッククリップみたいなアニメーションは無事に完成。卒業制作展ではそれなりに注目されました。おまけにその会場で当時デザイン学科の助教授だった方から声を掛けていただいて、その方の力添えですんなり就職が決まり、私はグラフィックデザイナーの道を歩み始めることとなりました。その後、数回の転職と独立を経て今なおデザイナーの道を歩んでいます。あの頃、ファーピクで培った打たれ強さと「ウケなきゃ負け」という思想は、今も私のなかに脈々と受け継がれていますし、スタッフ間の意思の疎通とそのまとめ方が重要な写真撮影の現場では、あの頃の自主映画での経験が、ディレクション能力を発揮する上で、少なからず力になっているのだと、思っています。

※シャア……機動戦士ガンダムに登場する、言わば敵役。のちのガンダムシリーズにも登場した。



★あの頃の芸大出身で現在著名な人々。

 誰もが「何かを表現する」ただそれだけを、目的無く考えていました。実際、大学生活4年のなかで多くの者が、そんな空気に耐えかね脱落、キャンパスを去りました。今にして思えば、毒素もたっぷり含んだとっても「濃密環境」だったように思えます。そんな中から、就職という受け皿の小ささがむしろ手伝ったのか、思いのほか多くの著名人が生まれたようです。漫画「アオイホノオ」主要キャスト以外の「あの頃出身著名人」をここに挙げてみましょう。現在、ウィキなどのネット百科事典に記載があり、時期的にみて漫画中のホノオ君=作者島本氏が学内ですれ違っていてもおかしくない人々限定です。
 

平谷美樹さん
作家。岩手県在住。在学中には漫研(CAS)の1年先輩として、たいへんお世話になった。卒業後郷里の岩手に戻られて美術の先生になられたまでは知っていたのだが、作家になられているとは失礼なことに最近まで知らなかった。第一回小松左京賞を受賞されたSF作家であられるが、角川書店刊「採薬使佐平次」シリーズなど時代小説もすこぶる面白い。

岩郷重力さん
島本氏には言わずと知れた「吉永先輩」。創元社や早川書房の文庫のカバーデザインでお馴染み。WONDER WORKZ 主宰。デザインしたカバーはすでに1000冊を超える。活動当初は本名の吉永和哉名義であった。フォント位置など緊張感のあるクールなデザインが特徴的。

木原浩勝さん
怪異収集家。スタジオジブリを経て、著書、現代百物語「新耳袋」でブレイク。共著の中山一朗氏もこの頃の芸大生である。「新耳袋」初め頃の集には、あの頃の芸大周辺の怪異がいくつも紹介されている。自宅通学組だった木原さんとは頻繁には遊べなかったが、いくらか特撮談義を交わしたことがある(木原氏はその方面でも有名)。21世紀の初め頃、平成ガメラのDVDボックスの特典映像で特技監督の樋口真嗣との対談映像を見ていて「あれ、彼知ってる!」と偶然思い出す。「継続は力なり」だなあ、とその時しみじみ思った。

Takashi Kubota さん
CGアーティスト。映画「ファイナルファンタジー」を経て北米に渡る。近年の名だたるハリウッド映画のエンドロールに頻繁に登場。在学中は大学祭の実行委員仲間として悲喜こもごも、仲良くさせてもらった。ちなみに上の木原さんもKubotaさんも「アオイホノオ」劇中で熱く語られた、伝説のアニメーター金田伊功氏(故人)と、場所は違えど一緒に仕事をしていたのである。

松尾貴史さん
「キッチュ」の芸名で演じた、朝まで生テレビの物真似で一躍有名になる。現在は、司会者としてコメンテーターとしてドラマの名脇役として、もはや知らない人はいない存在。私とはデザイン学科の同級生。在学中から、先生の物真似をして皆を笑わせていた。卒業後、非常勤講師(副手)としてデザイン学科の基礎実習「造形実習」教室にて後輩の指導に当たっていたことはあまり知られていない。デザイン学科では、かなり優等生然としていた彼が、何故芸能方面に進もうと考えたのかは定かで無いが、その道をまっすぐ進んで、そのまま手堅く極めちゃったところは、実に立派であると思う。

清積紀文さん
「ねこまたや」の名前でも活躍されているアニメーター、アニメ演出家で、同じ漫研(CAS)の同期。当時の学内では「金剛魔王」として特に有名。平時もスーパーカブで颯爽と走る姿はとにかく目立った。

吉田稔美さん
イラストレーター、絵本作家。作品「Never Girls」にてボローニャ国際絵本原画展入選。最近では現代の「のぞきからくり」とも言える「ピープ・ショー」を各地で開いている模様。私の一年後輩である。ちなみに兵庫県西脇市の「日本のへそシンボルマーク」は高校時代の彼女の作であるとのこと。

加戸誉夫さん
アニメーション演出家。獅子型のロボットが走り回るアニメ「ゾイド」のエンドクレジットで名前を見つけてから時々消息を確認する、デザイン学科の2年後輩。同じ漫研(CAS)会員だった。

田中政志さん
漫画家。90年代初め、小さな恐竜が猪突猛進する漫画「ゴン」で一世を風靡。その人気は、当時漫画を読まなかった私でもその存在は知っていたくらい。私の漫研(CAS)の2年後輩であるが、実のところよく覚えていない。CASでは矢野健太郎さんに続いて華々しい連載を飾った漫画家である。

他にもこんな人々が……

いのうえひでのりさん
劇団☆新感線主宰。演出家。今やなかなかチケットが手に入らない人気劇団は、この頃の芸大舞台芸術学科の学生を中心にして生まれ、あの頃「劇団☆新感線」とプリントされた黒Tシャツを着た一団をよく目にしたものです。特にいのうえさんは特徴的な風貌であったので、学内ではよく目立ちました。舞台芸術学科の学舎は大学内の隅に位置していて、ふつう派手に思われそうなこの学科の学生たちは思いのほか目立たないのが実情でしたが、そのなかで、学内では広く異彩を放っていた「劇団☆新感線」。今の成功の種はすでにこの頃から目に見えてあったのだと、思っています。そんな私が彼らに注目したきっかけは実は8ミリ自主映画でした。1982年度の映像計画学科の卒業制作だったと記憶していますが、太田さんという方が監督を務められた、田舎から都会に出て生きる若者たちの青春群像ドラマがありました。その出来がとにかく素晴らしくって、出ている俳優さんもまるで本物みたいで(自主映画は素人出演が基本形でしたから)、エンドクレジットの出演者に添えられていたのが「劇団☆新感線」の名前。どうやら出演者の多くが「劇団☆新感線」方々だった様子。いのうえさんは味のある脇を演じておられました(もちろん主役を食っていましたが)。この映画に今俳優で活躍されている筧利夫さんや渡辺いっけいさんが、もしかして出ていたのだろうか?などと、今となっては少々気になります。

筧利夫さん
「踊る大捜査線」シリーズでお馴染みですね。学生時代、劇団☆新感線に参加。

渡辺いっけいさん
今や連ドラではお馴染み。学生時代、劇団☆新感線に参加。

藤吉久美子さん
芸大舞台芸術学科に在籍中に、NHK連続テレビ小説「よーいドン」のオーディションで、主役の座を射止めてめでたくデビュー。藤吉久美子、この名前は本名なのですが、当時人気を誇っていた、秋吉久美子と一字違いというのが、気に掛かるデビューでしたが、あれからずっとずっと息長く活躍されています。ちょうど彼女主演の朝ドラが放送されていたあの頃、芸大14号ホールでおこなわれた上映会にて、在学中に彼女が出演した自主映画を観たことがあります。劇中彼女と再会した男の台詞「おまえ太ったな」と、劇中エンディングに掛かる山下達郎の「MONDAY BLUE」がなぜか今でも思い出されます。




★おまけ。あの頃トリビア。


◎あの頃の芸大映像計画学科学科長は、あのヨーダのモデルなのか?

ヨーダとはもちろん「スターウォーズ」シリーズのあのヨーダのこと。当時の学内ではもはや常識でした。ヨーダのモデルと言われる脚本家の依田義賢氏は、当時、映像計画学科の学科長でした。「新作のスターウォーズに出てくるあの妖怪油すましみたいなやつって、モデルが依田さんってほんと?」「ほんとうも何も、依田先生が自分でそう言ってたもん」というのは当時の我々の会話。依田義賢氏は主に旧大映映画で活躍されていた脚本家で、溝口健二作品に多く関わったことから、海外でも広く知られる日本を代表する脚本家のひとりです。庶民的なところでは、勝新太郎が「八尾の朝吉」を演じた人気シリーズ「悪名」が有名です。この依田氏にくわえ、旧大映映画の多くでカメラを務めた日本の至宝、名カメラマン宮川一夫氏、そして「大魔神」では特撮も担当した、こちらも名カメラマン森田富士郎氏と、今にして思えば豪華メンバーが、あの頃の映像計画学科で教鞭を執られていたわけです。ちなみに依田先生ですが、何度か学内でお見かけしたことがあります。ヨーダーのような小柄ではなく、どちらかというと大柄な方でした。お顔はたしかに、額や耳の辺りがヨーダに似ている気がします。


◎矢野健太郎さんてほんとにあんなスーツ着てたの?

私のCASの先輩、矢野健太郎さん。あの方は自宅通学組だったので、そうそう頻繁に会ったわけではないのですが、おおむねスーツは着ておられた印象です。漫画中の「石森章太郎風」でもなくテレビドラマ中の「純白スーツ」でもなく、細身のグレーのスリーピース、だったと記憶しています。あの頃のSF関係の方々には、そういう出で立ちの人は多かったのでは無いでしょうか。ともかく、当時の矢野さんは面白い人でした。漫画やアニメについてはもちろんお詳しかったのでしょうが、そんな知識をひけらかすことなく、ここにはとても書けないような、いわゆる「馬鹿話」を好まれるお方でした(笑)。


(おわり)
by pechkana | 2014-10-16 02:20 | 映画・書籍など | Comments(0)
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